行きたいところ

土日を利用してドライブや登山で遠出をそれなりにしてます。
やはり遠くに行くと(疲れるけど)非日常感が味わえて、楽しいですね。

このまえ近場の山に登山したのですが、登山口まで30分、山頂まで1時間で、
早朝出発で昼ごはん前には帰宅したので全然非日常感を味わえませんでした(笑)

で、もし3連休以上で休みがとれたら行きたい所、を備忘録として書いとこうと思う。

・熊野古道を一週間くらいかけて歩く ← 多分来年のGWに行く
・東北地方をドライブ ← まだ行ったことのない県が多いから
・四国 ← お遍路でお世話になった人に会いたいし、百名山が二座あるから登りたい。
・香川 ← うどん食べたい
・北海道 ← 自分で運転してみたい
・電車旅 ← 最近ドライブばかりだからゆっくり車窓も見たい

ふむ、書いたらなんとなく整理できてきました。
まースペインのサンティアゴ巡礼もあるけど…パスポートきれてるしなー。




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悪口を言わない

ぼくが鬱治療してたとき、病院で性格に関する検査をしてもらったことがある。十数個の項目があるんだけど、「未発達の自己」「厳密な基準」「否定」「承認欲求」に次いで「感情抑制」が高かった。

❝感情抑制:あたかも感情などないかのように、淡々と振る舞います。それがとても「理性的」に見える場合もあるでしょう。自分の感情をコントロールし、自信に満ちているように見える人もいます。❞

「ちかひら君って怒ったことある?」と聞かれたことが何度かある。言われてみると、怒りの感情をあんまり出すことってないなーとその都度思う。怒りの感情自体はこころのなかで感じているはずなんだけど…。



所属している組織(職場や遊び仲間など)で、他人についての悪口を聞く機会がけっこうあったし今もある。その人がその場にいない時に言うこともあるし、面と向かって言うこともある。ぼくは(自分に対してではない)悪口を聞くのがすごく苦手で、その場にいるのが嫌になってしまう、けど、悪口を言われている当の本人を見ると、案外ケロッとしていることも多い。

なぜ苦手かというと、おそらく「次は自分に矛先が向くだろう」という連想が自動的に頭をよぎるから。そして、もっと掘り下げると過去の軽いいじめられ経験やキモがられ経験に結びついてるんだろうけど、まあそこは今回は置いとこう。

悪口が苦手なぼくは、基本的には人の悪口は言わないし、言動や考えを否定するような合いの手は入れないようにはしてる。単に受け止めるだけというか、「そうなんですね」「楽しんでますね」を色んなパターンで返す感じ。その結果、わりと誰とも仲良く(逆に言うと親密にもならず)中庸な関係を築けていると思う。

(「基本的に」と上で言ってるのは、自分が悪口だと認識している(=自分が苦手な)表現以外での悪口は気づかない所で言ってるんだろうな、と思うから。)



悪口ばかり言う人をよく観察してみると、いつも不機嫌な表情をしているし、あんまり楽しそうじゃない。そして周りの人もビクビクしながら(距離をおきながら)付き合っているし、下手なことを言うと悪口のネタにされるから、あんまり情報をその人に出したがらない。結果として孤立しているような雰囲気になっている。そして無意味な対立や派閥もできてしまう。

そういうのを見てると、余計に悪口は言わない方がいいに決まってると思う。



自分の父親が悪口を言っているのを見たことがない。だからだろうか、「真の」大人は悪口なんて言わないという無意識のイメージがある。それはそのまま、悪口を言う大人を見下す態度へとつながっているように思う…そしてぼくは実際、心の中で馬鹿にしてる。(言わないけど)。

はじめに書いた「感情抑制」に関する説明には続きがあって…
❝感情をあらわにする人、人前で怒ったり泣いたりする人をひどく馬鹿にします。しかし本当はそれがうらやましいのです。❞

たしかに、うらやましいという気持ちがあるかもしれない。上述の、悪口を言う人についての観察も、うらやましさの裏返しの思考と言える。
でも、感情抑制といっても、プラスの感情は抑制していないはず。楽しいことがあったときは思い切り笑うし、登山に行くと満面の笑顔になる。



話があっちこっち行ってるけど、「他人への悪口って自分が思ってるよりみんな言っている」という事実を受け入れたくない、というのが一番の自分の引っかかりポイントなんじゃないかなと思っている。やわな考えというか、理想主義者というか、そんな平和な世界はないだろうとは思うけど。

他人を変えることは出来ない。だから、自分を変えるしかない。
「他人の悪口を言うようにする」なんてことは勿論しないけど(笑)、自分は自分で理想を貫きつつ、他人が他人の悪口を言うのをスルーするスキルをつける、或いは耐性をつけることが出来たらもう少し楽にいられるはず。

ベストではないけどベターを目指してみようか。


【追記】
読み返してみると、この文章自体に怒りの感情がにじみ出てますね…特に中盤。
いわゆる感情的にはならないけど、淡々と理論立てて(いるような体で)怒るタイプに人間なんだろうか(笑)


雑記

しばらくブログ放置気味のちかひらです。
特別書くようなことは無い感じです。淡々と日常を送っているというか、夕方まで仕事頑張って、夕飯作って、アニメ見て、本読んで、早く寝る、みたいな(笑)けっこう充実してます。

とりあえずいくつか近況報告でもしときますね。


・北アルプスいってきた
登山が好きなんで、いつか行きたいと思ってた北アルプス。ついに行ってきました。
天気はちょっと微妙でガスが多かったのは残念だったけど、山小屋泊で翌日の早朝に御来光を見に山頂に行くと雲が晴れて近隣の峰々が一望できて…もう最高でした。槍ヶ岳があんなに近くに!縦走コースはあの尾根をずっと歩くのか~!とか、もう色々ウキウキしちゃいました。
一泊二日だったんですが、それぞれ8時間以上は歩いて、気持ちのいい疲れ具合。普段仕事で身体を動かしているので、自分でもびっくりなくらい体力がついていたのも自信になりました。同行した友人たちもそこそこ体力あるメンツなんですが、彼らと比較しても体力ある方だったぜい。
すっかり北アルプスの虜になったので、また来月にでも行ってこようかなと画策中。秋に入ると山小屋閉まっちゃうからその前に…。

・先輩のパンツ
職場の先輩から汗でビチョビチョになったホカホカの脱ぎたてパンツを後ろから被せられそうになるんですが、どう対応すればいいかアイデア募集中です。ちなみに現状では「やめてくださいよ~」とかいいつつ3%くらい楽し

・パパみ
パパみ溢れる上司がかわいくて仕方ないです。今度個人的に飲みに誘ってもらえる手はずになってるので待ちくたびれてます。既婚者を落とすにはどうすれば…

・別れました
ちょっと言いそびれてたんですが、先月あたりに相方と別れることにしました。付き合って長いのでもう家族みたいな感じだったんですけど、遠距離期間がさすがに長くて一緒にいる時間が実際めっちゃ短いというのと、僕が転職した先が結局まあ少し距離があってそんな会えない(申し訳ない)というのと。まあそんなところで、長く連絡も取り合わない期間が続いてたんで、僕から切り出しました。
正直(なにかの)肩の荷が降りたというか、心機一転フリーでぼちぼちやっていこうというところです。女の人と結婚する未来を想像するような心境の変化もあるし(それはそれで実現可能性は低いんだけれども)、そんな焦らずまた楽しんでいこうかなと。近くにセクマイの勉強会みたいな集まりもあるようなので、そういうのに参加してまた改めて自分のこととか考えてみるのもいいかなと思う。次回開催日は予定合わせていってみようかな、と。

・コミケ
今年の夏コミは帰省の兼ね合いもあって不参加。冬コミはうまく調整して行きたいな。好きな絵師さんの薄い本、また買いたい。買いたい!

というわけで、また。

北アルプス


どう生きていくかって日常で考えなくてもいいよなって思うけど

タイトルが長いと最近の漫画とかアニメのタイトルっぽくてノリがいいですよね。
自分の文体って結構固めだから…苦笑

とまあ、タイトル通りで、日々生活したり仕事したりしてて、ふと将来のことを考えちゃうことがある。多分考える暇があるくらいにはまだ仕事にゆとりがあるわけで、これからぼちぼち忙しくなってくるとそういうのも考えなくなっていくんだろうなと。でも、考えること自体は(疲れるけど)悪いことではないし、行き過ぎない程度にはそのまま考えるようにはしてる。

最近よく考えるのはやはり、この見知らぬ土地で、この仕事で、将来までずっとやっていくのだろうかという将来への漠然とした不安。というか単なる未知への不安。土地も仕事も気に入ってるし、以前のことを考えたら贅沢言い過ぎなくらいには充実してるんだけど…なんでだろう、やっぱり「本当にこれで良かったのかな」みたいな思考が顔を覗かせる。

そんな時は、今こうしてるその発端を考えてみる。すると、「縁があったから」というところに落ち着いた。当時もそういうふうに思っていたし。偶然のタイミングで転職活動して、縁があって採用してもらって。
縁があったというのを大事に思ったのは、一年前のお遍路の経験があったから。道中数々の偶然の出会いがあって、縁って大事だなと思った。あの経験で、めぐり合わせとか縁とか、そういうものをすごく大事にする価値観を得たんだよな。

つまりは、当時の状況からして必然的にいまここにいるわけで、「本当にこれで良かった」かどうかはそもそも問題じゃないわけで。結果論を言ってるにすぎない。あの時の最高の選択の結果が今だ。



以上の思考は、お遍路での経験を参考に、今おこっている出来事の対処法を検討するというもの。遍路即人生だから。大いに参考になる。



でも…ふと思う。お遍路で直面した様々な出来事を乗り越えたといっても、悟りの境地に近いような思考でもって乗り越えたことも多い。それはそれで素敵なことだけど、現実として…もう悟りからまた離れてしまった今の自分としては、どうしても「自分に言い聞かせる」系の対処法であることが多いなぁと実感している。

そういう悟り的な思考法で毎度悩みを乗り越えても、少しずつトゲが心には残ってしまう。そして、それが蓄積して、突然泣きそうになることもあるかもしれない。それは自分にとっては心配。漠然とした不安ってのもそのへんからにじみ出てくるのかも。

仕事や環境に楽しみは見出だせてるし、毎日笑顔で過ごすように努めてて、文句も言わないようにしてる。言葉を発した瞬間からそれが具現化してしまうように思うから。
でも、そうやって楽しい自分、充実してる自分だと言い聞かせる裏で、実はそうでもない部分もあるんじゃない?っていう裏の顔も確実に出てきてる。鬱になってしまったあの秋~冬もそうだった。

だから今、素直に愚痴を言える相手がほしいなとも思ってる。あんまり言葉にしないのがベストとはいえ、溜め込む弊害のほうが大きいように思うから。

物事すべてが順調なことってない。確かに歩いて距離は進んでいるけど、足が痛かったり、空腹だったり、暑かったり、ずぶ濡れだったりする。そういうのは痛いなぁ暑いなぁと言いながら歩くもんだ。それでも、夕方の温泉は最高に気持ちよくて、すべてが最高の思い出になる。


こう書き進めてみて(一気に書いてます)、今の不安をお遍路による経験で解決する方法の短所すらお遍路による経験でもって何とかしていこうとする自分の驚異的お遍路信仰がすごいな…と軽く引いてるのだけれど(笑)、自覚できてるからよしとしよう。

人生は旅だ。旅は予定通り進むもんじゃない。思いがけない人に出会って、思いがけない出来事があって、思いがけない道をゆく。計画なんて無いようなもの。将来のことを考えるのは悪いことじゃないけど、考えすぎて今を疎かにしちゃいけない。今歩いている道で出会う出来事にしっかり向き合っていこう。



100%の善は有りうるか?

「偽善の現れとしての善」という言葉を少し前に思いつき、時々反芻している。すんごい闇を抱えてるような雰囲気ですけど、そういうわけではなくてさ。
あるいは「偽善なくして善なし」はどうだろう。100%の善は有りうるのかという命題である。



四国に歩き遍路に行ってからもう1年が経とうとしてる。あの旅の道中に色んな人からもらったお接待、あれにはすごく助けられたし、嬉しかった。お接待というのは多分「善」に分類されるだろう。いや、偽善と言ったら怒られちゃうし、自分としても良い気はしない。でも偽善である可能性は…?

良いことをする時ってさ、心のどこかに「ほめてもらいたい」「良い人だと思ってもらいたい」みたいな欲があると思うんだよね。そういう裏のない完璧なる善もあるのはあるんだろうけど、よっぽど悟りの境地に至ってる人か、無欲の人じゃないと出来ないと思う。現実的に。だから、お接待をしてくれた大勢の人々のうち、何人かはそういう気持ちの人もいたんじゃないか。

こういう欲のある善を「偽善」と呼ぶのが適切なのかはちょっと議論の余地はありそうだけど、とりあえずこの記事では狭義の偽善と定義することにする。

そうすれば、僕たちお遍路は、「偽善の現れとしての善」を受けたということになる。



先日、ドライブがてら立ち寄った道の駅に、バイクで日本一周している帰り道のおじさんを見かけた。思い切って話しかけてみて、ひと通り会話がはずんだ後、自販機で買ったお茶を渡した。おじさんは「どうして?」というような表情でびっくりしてたけど、「いやぁ、以前自分が長旅してたときに色んな人にお世話になったもんで」と伝えると、すごく喜んでくれて。その表情を見ると僕まで嬉しくなっちゃって、夕焼けを眺めながらの帰り道がめちゃくちゃ輝いてたわけですよ。

思い返すと、自分の心理としては「おつかれの旅人さんにお茶を渡せば喜んでくれるだろうな」とか「旅人さんの思い出のワンシーンに自分が少しでも彩りを加えられたらいいな」とかそういう「偽善」の気持ちもあったわけで。

それならばあの時の行動は良くないことだったのかと言うと、全然そんなことは無くて、事実あのおじさんは喜んでくれたし、自分も嬉しかったし、双方良いことづくめだったわけ。



となると、その動機が「偽善」であっても、その現れとして「善」があってそれによって幸せになれるのならいいんじゃないか、「偽善」にばかりフォーカスを当てるのはナンセンスなんじゃないかって思える。

そういう意味で、「100%の善は有りうるのか」という疑問に対しては「たぶん無いけど、表面が善ならいいじゃん」と結論づけたい。



まあ、お遍路中もこういうことはちらっと思ってて、「お接待という生きがい」という記事でも書いてはいるんだけど、こうして「偽善と善」という一般論的に考え直してみると、普段の生活でも当てはめられるしね。

…って、普段の生活からこういうことを考えてるから鬱なんかになるんだよな(笑)
考えるのは好きだけど、ほどほどにしつつ、日々与えられることをやっていこう。

あのおじさん、無事に帰れたかなぁ。




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