どう生きていくかって日常で考えなくてもいいよなって思うけど

タイトルが長いと最近の漫画とかアニメのタイトルっぽくてノリがいいですよね。
自分の文体って結構固めだから…苦笑

とまあ、タイトル通りで、日々生活したり仕事したりしてて、ふと将来のことを考えちゃうことがある。多分考える暇があるくらいにはまだ仕事にゆとりがあるわけで、これからぼちぼち忙しくなってくるとそういうのも考えなくなっていくんだろうなと。でも、考えること自体は(疲れるけど)悪いことではないし、行き過ぎない程度にはそのまま考えるようにはしてる。

最近よく考えるのはやはり、この見知らぬ土地で、この仕事で、将来までずっとやっていくのだろうかという将来への漠然とした不安。というか単なる未知への不安。土地も仕事も気に入ってるし、以前のことを考えたら贅沢言い過ぎなくらいには充実してるんだけど…なんでだろう、やっぱり「本当にこれで良かったのかな」みたいな思考が顔を覗かせる。

そんな時は、今こうしてるその発端を考えてみる。すると、「縁があったから」というところに落ち着いた。当時もそういうふうに思っていたし。偶然のタイミングで転職活動して、縁があって採用してもらって。
縁があったというのを大事に思ったのは、一年前のお遍路の経験があったから。道中数々の偶然の出会いがあって、縁って大事だなと思った。あの経験で、めぐり合わせとか縁とか、そういうものをすごく大事にする価値観を得たんだよな。

つまりは、当時の状況からして必然的にいまここにいるわけで、「本当にこれで良かった」かどうかはそもそも問題じゃないわけで。結果論を言ってるにすぎない。あの時の最高の選択の結果が今だ。



以上の思考は、お遍路での経験を参考に、今おこっている出来事の対処法を検討するというもの。遍路即人生だから。大いに参考になる。



でも…ふと思う。お遍路で直面した様々な出来事を乗り越えたといっても、悟りの境地に近いような思考でもって乗り越えたことも多い。それはそれで素敵なことだけど、現実として…もう悟りからまた離れてしまった今の自分としては、どうしても「自分に言い聞かせる」系の対処法であることが多いなぁと実感している。

そういう悟り的な思考法で毎度悩みを乗り越えても、少しずつトゲが心には残ってしまう。そして、それが蓄積して、突然泣きそうになることもあるかもしれない。それは自分にとっては心配。漠然とした不安ってのもそのへんからにじみ出てくるのかも。

仕事や環境に楽しみは見出だせてるし、毎日笑顔で過ごすように努めてて、文句も言わないようにしてる。言葉を発した瞬間からそれが具現化してしまうように思うから。
でも、そうやって楽しい自分、充実してる自分だと言い聞かせる裏で、実はそうでもない部分もあるんじゃない?っていう裏の顔も確実に出てきてる。鬱になってしまったあの秋~冬もそうだった。

だから今、素直に愚痴を言える相手がほしいなとも思ってる。あんまり言葉にしないのがベストとはいえ、溜め込む弊害のほうが大きいように思うから。

物事すべてが順調なことってない。確かに歩いて距離は進んでいるけど、足が痛かったり、空腹だったり、暑かったり、ずぶ濡れだったりする。そういうのは痛いなぁ暑いなぁと言いながら歩くもんだ。それでも、夕方の温泉は最高に気持ちよくて、すべてが最高の思い出になる。


こう書き進めてみて(一気に書いてます)、今の不安をお遍路による経験で解決する方法の短所すらお遍路による経験でもって何とかしていこうとする自分の驚異的お遍路信仰がすごいな…と軽く引いてるのだけれど(笑)、自覚できてるからよしとしよう。

人生は旅だ。旅は予定通り進むもんじゃない。思いがけない人に出会って、思いがけない出来事があって、思いがけない道をゆく。計画なんて無いようなもの。将来のことを考えるのは悪いことじゃないけど、考えすぎて今を疎かにしちゃいけない。今歩いている道で出会う出来事にしっかり向き合っていこう。



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100%の善は有りうるか?

「偽善の現れとしての善」という言葉を少し前に思いつき、時々反芻している。すんごい闇を抱えてるような雰囲気ですけど、そういうわけではなくてさ。
あるいは「偽善なくして善なし」はどうだろう。100%の善は有りうるのかという命題である。



四国に歩き遍路に行ってからもう1年が経とうとしてる。あの旅の道中に色んな人からもらったお接待、あれにはすごく助けられたし、嬉しかった。お接待というのは多分「善」に分類されるだろう。いや、偽善と言ったら怒られちゃうし、自分としても良い気はしない。でも偽善である可能性は…?

良いことをする時ってさ、心のどこかに「ほめてもらいたい」「良い人だと思ってもらいたい」みたいな欲があると思うんだよね。そういう裏のない完璧なる善もあるのはあるんだろうけど、よっぽど悟りの境地に至ってる人か、無欲の人じゃないと出来ないと思う。現実的に。だから、お接待をしてくれた大勢の人々のうち、何人かはそういう気持ちの人もいたんじゃないか。

こういう欲のある善を「偽善」と呼ぶのが適切なのかはちょっと議論の余地はありそうだけど、とりあえずこの記事では狭義の偽善と定義することにする。

そうすれば、僕たちお遍路は、「偽善の現れとしての善」を受けたということになる。



先日、ドライブがてら立ち寄った道の駅に、バイクで日本一周している帰り道のおじさんを見かけた。思い切って話しかけてみて、ひと通り会話がはずんだ後、自販機で買ったお茶を渡した。おじさんは「どうして?」というような表情でびっくりしてたけど、「いやぁ、以前自分が長旅してたときに色んな人にお世話になったもんで」と伝えると、すごく喜んでくれて。その表情を見ると僕まで嬉しくなっちゃって、夕焼けを眺めながらの帰り道がめちゃくちゃ輝いてたわけですよ。

思い返すと、自分の心理としては「おつかれの旅人さんにお茶を渡せば喜んでくれるだろうな」とか「旅人さんの思い出のワンシーンに自分が少しでも彩りを加えられたらいいな」とかそういう「偽善」の気持ちもあったわけで。

それならばあの時の行動は良くないことだったのかと言うと、全然そんなことは無くて、事実あのおじさんは喜んでくれたし、自分も嬉しかったし、双方良いことづくめだったわけ。



となると、その動機が「偽善」であっても、その現れとして「善」があってそれによって幸せになれるのならいいんじゃないか、「偽善」にばかりフォーカスを当てるのはナンセンスなんじゃないかって思える。

そういう意味で、「100%の善は有りうるのか」という疑問に対しては「たぶん無いけど、表面が善ならいいじゃん」と結論づけたい。



まあ、お遍路中もこういうことはちらっと思ってて、「お接待という生きがい」という記事でも書いてはいるんだけど、こうして「偽善と善」という一般論的に考え直してみると、普段の生活でも当てはめられるしね。

…って、普段の生活からこういうことを考えてるから鬱なんかになるんだよな(笑)
考えるのは好きだけど、ほどほどにしつつ、日々与えられることをやっていこう。

あのおじさん、無事に帰れたかなぁ。




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