煩悩遍路4日目「孤独と罪悪感」―発心の道場―

4日目

「明るく生きろ!」
宿の主人に笑顔で見送られながら、お遍路4日目がはじまった。
重たい荷物、連日の長距離・長時間歩行で、さすがに疲れが溜まっているが、
おかげで夜はぐっすり寝られるので鬱治療にはちょうどいい。



本日は、峠を越え、徳島市内に向かってゆるやかな下り坂を歩き、
徳島市内の17番井戸寺まで行く予定だ。
すだち畑を5月の涼しい風が吹き抜ける。

遠方の山や川、そして青空を眺めながら歩く。
いかに普段の生活で「遠景を見る」機会が少ないかに気付かされる。

カーテンを閉めきった部屋の中で、
PC画面や携帯電話、資料や本とにらめっこする日々だった。
そして退勤するころにはもう夜が景色を覆う。
近景ばかりを見ることと、自分が発症した脳疲労とは、少なからず関係があるのかもな。



素晴らしい景色の中、歩くこと約2時間。
鮎喰川という、これまたとびっきり綺麗な川の橋を渡る。
驚きの透明度!思わず裸足になり、足を浸して休憩した。
冷たくて気持ちいい。

5月のド平日に、こんな最高な場所にいられる幸せ。
ある意味、休職したおかげだよなぁ…。

心境は複雑っちゃ複雑である。
人生万事塞翁が馬。



この日、前日まで数人見かけていた歩き遍路にほとんど出会わなかった。
実は12番焼山寺から13番大日寺まではルートが2つあるので、
他の人は別ルート選んだのかもしれない。
或いは、ちょっと長い距離となるためバスに乗ったか、
前日の時点でぼくよりもう少し先に進んだところの宿に宿泊したかだ。

ただでさえ(言い方が悪いが)過疎化が進んでいるであろう山間部の集落、
車やトラックの往来はあれど、人とはあまり出会わない。
ひとり歩いていると、さみしい。

川沿いの県道にも飽きてきて、
山間部を歩いていたときの幸福感は次第に薄れていった。



途中、立派な遍路小屋があったので、そこで昼休憩とする。
ここには地元の人が用意してくれている飲み物や採れたての柑橘類(種類が分からない)が
冷蔵庫に冷やされており、ご自由にどうぞ、と書かれていた。
宿で頂いたおにぎりと、ここの柑橘類を食べる。
疲れた身体に酸っぱさが染み渡る。

また、市街地まで下ってきて入った駄菓子屋さんでは、注文したたこ焼きを多めに作ってくれ、
さらには冷えた麦茶をぼくのペットボトルに入れてくれた。

なんという親切な地元の人達だろう。普通ならここで、
「お接待を受けていくうちに他人への感謝の気持ちが高まりました!」
とかいう素敵な成長物語になるのだろうが、
ぼくはそれとはベクトルが逆方向の感情が膨らんでいっていた。

「ぼくみたいな信仰心のない歩き遍路がお接待を受けていいのか?」
罪悪感である。



そんな気持ちを抱いたまま、16時半、本日最後のお寺に到着。

境内では近所に住むおばあちゃんから喋りかけられた。
ほぼ毎日お寺に来ているらしい。

「お兄さん若いのに偉いねぇ。ここの通夜堂に泊まっていきなさいよ」
本当は近くの善根宿(なんとシャワーもあるらしい)に泊まろうと思っていたが、
これも何かの縁と思い、通夜堂に泊めてもらうことにした。

納経所にて、若い住職(たぶん)さんに恐る恐る声をかけた。
「歩き遍路なんですが、通夜堂お借りしていいですか…?」
呆気無く許可をいただいた。

そんなこんなで、ぼくはお寺に泊まることに“なってしまった”。



さぁてネガティブ自問自答タイム。
「…いいのか?ぼくがお寺に泊まっても?
ロウソクも線香も読経もお賽銭も割愛してるこのぼくが?」

それくらいしろよ!と言われそうだが、
今回のお遍路はとりあえず「歩いてみたい」だけだったので、仏教的要素は割愛したのだった。
だいたい、仮に読経したとしてもそれは見せかけだけで、心的な中身は伴わないし…。

飲食物のお接待をいただくことに申し訳なく思っている自分。
お寺の通夜堂に泊まることを申し訳なく思っている自分。
一方で寝場所のお接待(つまり善根宿や野宿可能場所)はアテにして旅を計画している自分。
(※野宿は原則として近隣の人の黙認という善意の上に成り立っている)

「自分はまったく都合のいい人間だなぁ」
今朝 山間部を歩いていたときの幸福感は枯渇しそうになっていた。



夕暮れの静かな境内を、若いお坊さん(住職?)が子供を抱いて散歩していた。
ぼくは通夜堂の窓からただ眺めるだけだった。
こういう時こそ、人と話した方が精神衛生上良いことは昨日気付いていたのに。
(※お坊さんはイケメンだったけど僕の好きなタイプではない)

最初の一声を躊躇しているうち、お坊さんの姿は見えなくなっていた。



お寺に夜がやってきた。
二畳間の通夜堂にひとり、無言でコンビニ弁当を食べる。

暗闇に浮かぶ境内の弘法大師像のシルエット(ちょっと怖い)を眺めながら、
毎晩の日課である日記を書いた。

5/19(木)日記より抜粋

「今回、お遍路を少ししてみて、地域住民同士の通い合い、仲の良さ、
そしてそこによそ者(自分)を入れてくれるあたたかさを感じました。
弘法大師さんも、そういうものを感じて歩いていたのですか?
それとも、弘法大師さんの存在が四国の人を、そして四国に来た人をそうさせるのですか?
こんな大した信仰心もなくただ歩いてみたかった者のために尽くしてくれる人、
お接待してくれる人、善根宿を運営してくれている人がいる。本当に申し訳ないです。
いいんでしょうか。“利用”して、いいんでしょうか…?」



「歩き遍路の理想像」を追求する、完璧主義的思考の呪縛はいまだ健在だった。



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