100%の善は有りうるか?

「偽善の現れとしての善」という言葉を少し前に思いつき、時々反芻している。すんごい闇を抱えてるような雰囲気ですけど、そういうわけではなくてさ。
あるいは「偽善なくして善なし」はどうだろう。100%の善は有りうるのかという命題である。



四国に歩き遍路に行ってからもう1年が経とうとしてる。あの旅の道中に色んな人からもらったお接待、あれにはすごく助けられたし、嬉しかった。お接待というのは多分「善」に分類されるだろう。いや、偽善と言ったら怒られちゃうし、自分としても良い気はしない。でも偽善である可能性は…?

良いことをする時ってさ、心のどこかに「ほめてもらいたい」「良い人だと思ってもらいたい」みたいな欲があると思うんだよね。そういう裏のない完璧なる善もあるのはあるんだろうけど、よっぽど悟りの境地に至ってる人か、無欲の人じゃないと出来ないと思う。現実的に。だから、お接待をしてくれた大勢の人々のうち、何人かはそういう気持ちの人もいたんじゃないか。

こういう欲のある善を「偽善」と呼ぶのが適切なのかはちょっと議論の余地はありそうだけど、とりあえずこの記事では狭義の偽善と定義することにする。

そうすれば、僕たちお遍路は、「偽善の現れとしての善」を受けたということになる。



先日、ドライブがてら立ち寄った道の駅に、バイクで日本一周している帰り道のおじさんを見かけた。思い切って話しかけてみて、ひと通り会話がはずんだ後、自販機で買ったお茶を渡した。おじさんは「どうして?」というような表情でびっくりしてたけど、「いやぁ、以前自分が長旅してたときに色んな人にお世話になったもんで」と伝えると、すごく喜んでくれて。その表情を見ると僕まで嬉しくなっちゃって、夕焼けを眺めながらの帰り道がめちゃくちゃ輝いてたわけですよ。

思い返すと、自分の心理としては「おつかれの旅人さんにお茶を渡せば喜んでくれるだろうな」とか「旅人さんの思い出のワンシーンに自分が少しでも彩りを加えられたらいいな」とかそういう「偽善」の気持ちもあったわけで。

それならばあの時の行動は良くないことだったのかと言うと、全然そんなことは無くて、事実あのおじさんは喜んでくれたし、自分も嬉しかったし、双方良いことづくめだったわけ。



となると、その動機が「偽善」であっても、その現れとして「善」があってそれによって幸せになれるのならいいんじゃないか、「偽善」にばかりフォーカスを当てるのはナンセンスなんじゃないかって思える。

そういう意味で、「100%の善は有りうるのか」という疑問に対しては「たぶん無いけど、表面が善ならいいじゃん」と結論づけたい。



まあ、お遍路中もこういうことはちらっと思ってて、「お接待という生きがい」という記事でも書いてはいるんだけど、こうして「偽善と善」という一般論的に考え直してみると、普段の生活でも当てはめられるしね。

…って、普段の生活からこういうことを考えてるから鬱なんかになるんだよな(笑)
考えるのは好きだけど、ほどほどにしつつ、日々与えられることをやっていこう。

あのおじさん、無事に帰れたかなぁ。




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